SONYが、家庭用のブルーレイディスクレコーダーの出荷終了を発表した。
対象となるのは、直近数年に発売された複数のモデルで、
後継機は予定されていないとされている。
この発表はニュースとして拡散され、
SNS上では、それに反応する投稿が一定数見られた。
その中には、
「記録させまい、手元に残させまい、という流れを感じる」
「配信が終わったら、それで終わりになる」
「残らないことが前提になっている」
といった言葉が含まれていた。
これらの反応は、
製品の性能や価格について語るものではなく、
「記録できること」そのものに向けられている。
現在、映像や音声の多くは、
配信サービスを通じて消費されている。
視聴は可能だが、
物理的な形では残らない。
配信が終了すれば、
視聴できなくなる場合もある。
一方で、
ディスクへの録画や保存は、
視聴と同時に「保持」を伴っていた。
この二つは、
使い勝手の違いというより、
時間との関係性が異なっている。
ここで繰り返し観測されるのは、
・視聴すること
・残すこと
が、同じ行為として扱われなくなっている点である。
見ることはできるが、
持ち続けることは想定されていない。
この前提は、
明示されることなく、
環境として定着している。
多くの場合、
この変化は利便性の向上として説明される。
しかし反応の中では、
便利さよりも、
「消えること」に意識が向けられている。
失われるのは、
機器そのものではなく、
・後から見返せる前提
・個人の手元に留まる感覚
・時間をまたいで持ち続ける位置
であるようにも見える。
記録しないことが標準になると、
残らないことは問題として扱われない。
残らない状態は、
仕様として受け入れられる。
気づかれるのは、
選択肢が消えたあとである。
この流れは、
映像に限らず、
多くの分野で同時に起きている。
記録する文化が消えているというより、
記録しない前提の上で、
日常が組み立て直されている状態
が、現在観測されている。

