「かわいい」って言葉や感覚が世界でそのまま通じると知った時、不思議な感覚がした。
こんにちは、ジャリです。
ある時期から、
日本発の「かわいい」という感覚が、
国や文化の枠を越えて共有されるようになっています。
ファッション、キャラクター、色使い、表情、所作。
それらは「日本的」として紹介されながら、
同時に「グローバルな感覚」として消費されています。
海外のポップカルチャーや広告、SNSの表現の中にも、
日本由来とされる「かわいい」要素が見られる場面が増えています。
日本国内では、
「かわいい」は長く日常の中に存在してきました。
子ども向けの表現に限らず、
文房具、家電、交通機関、行政の掲示物など、
機能や説明とは別の層として配置されています。
そこでは、
かわいいことが
幼さや未熟さと直結する前提は置かれていないです。
感情を和らげる。
距離を縮める。
緊張を下げる。
そうした役割が、
明示されることなく使われ続けてきました。
一方、
多くの海外文化圏では、
長いあいだ
「大人向けの表現」と「子ども向けの表現」が
明確に分けられてきました。
かわいさは、
未成熟さや保護対象と結びつきやすく、
公共性や権威とは距離を取られる傾向がありました。
その前提のもとでは、
大人が「かわいい」を選ぶ行為は、
説明を必要とするものとして扱われやすいです。
近年、
その前提条件が少しずつ変化しています。
SNSやデジタル空間では、
年齢・役割・立場が視覚的に薄まり、
感情や雰囲気が先に共有されます。
安心感。
柔らかさ。
攻撃性の低さ。
そうした要素が、
国や文化を越えて機能しやすくなっています。
その結果、
日本で日常的に使われてきた「かわいい」の配置が、
別の文脈でも意味を持つようになっています。
ここで観測されるのは、
「かわいい」が評価された、という出来事ではないです。
かわいいという感覚が、
もともと置かれていた位置と、
受け取られる側の前提条件が、
ある時点で重なった状態である。
日本では当たり前だった配置が、
別の文化圏では新鮮なものとして現れます。
そのズレが、
拡散や共有という形で可視化されています。
かわいいは、
主張ではなく、
意味づけの手前に置かれます。
その性質が、
現在の環境と噛み合っている。
それが、
いま観測されている状態です。

