なぜ人は失ってから大切さに気付くのだろう?
こんにちは、ジャリです。
ある投稿が、SNS上で広く読まれています。
内容は、
母親が突然亡くなったこと、
日常的に会話を十分に聞いていなかったこと、
最後に一緒に作った料理の記憶について語られています。
「もっと話を聞いていればよかった」
「失ってから気づいた」
という言葉が含まれていました。
この投稿に対して、
多くの反応が集まり、
共感や涙を示すコメントが続いています。
一方で、
投稿を読んだ人の中には、
「なぜ人は失ってから気づくのか」
「事前に大切さに気づけないのか」
という言葉を添える人もいる。
その問いに対して、
「気づけないから一緒に生きられる」
「常に失う可能性を意識していたら、日常は成り立たない」
という返答が見られました。
ここでは、
出来事そのものよりも、
語られ方の型が繰り返されていることが観測されます。
日常の中では、
関係性は「いつもあるもの」として扱われ、
特別な注意は向けられない。
関係が断たれたあと、
過去の場面が再解釈され、
意味が付け直されます。
そのとき初めて、
「大切だった」という言葉が現れる。
この流れは、
個別の親子関係に限らず、
多くの場面で共通して見られます。
失う前の状態では、
気づかないことが前提として機能している。
気づかないことで、
会話は続き、
生活は進み、
日常は滞りなく維持されているんです。
気づきは、
出来事の進行を支える要素ではなく、
出来事が終わったあとに現れる性質を持ちます。
多くの場合は、
人は「後から意味づける位置」に立たない限り、
その重要性を言語化しません。
この構造の中では、
気づかなかったこと自体が、
異常な状態として扱われていないんです。
むしろ、
気づかない状態こそが、
関係を継続させている側面として残っています。
感情が生まれる順番と、
出来事が起きる順番には、
時間差が存在しています。
その時間差が、
語りとして表に出る。
それが、
現在観測されている状態です。

