「関心領域」という概念の構造 ──人間側の前提条件の話──
こんにちは、ジャリです。
「関心領域」という言葉は、
何かを好きか嫌いか、
正しいか間違っているか、
そういった判断の話ではないところにあります。
それはもっと手前の、
どこまでを“自分の世界”として認識しているか
という範囲の話に近い。
人は、見えているものすべてを
同じ密度で受け取ってはいないです。
音が聞こえていても、
景色が視界に入っていても、
それが「関心の内側」に入っていなければ、
ほとんど情報として処理されないんです。
多くの人が無意識に持っている前提条件
多くの人は、
自分の関心領域は
自然に決まっているものだと感じています。
仕事
家庭
人間関係
日々の不安
目の前の役割
それらで埋まっている範囲が、
「生きている世界のすべて」だと
疑うことなく思っているんです。
だから、
関心領域の外側で起きている出来事は、
存在していないのと、
ほとんど同じ扱いになる。
それは冷たさでも、
鈍さでもなく、
前提条件の問題に近いです。
前提が変わったときに生まれる違和感
ここ数年、
多くの人が感じている違和感は、
「何が起きているのか分からない」
という感覚ではなく、
「確かに何かは起きているのに、
自分の判断がそこに追いつかない」
というズレに近いと感じます。
情報は増えているのに、
現実感は薄れていくような感覚。
誰かの出来事が
急に自分の生活に侵入してくるように感じたり、
逆に、
重大な出来事が
まったく実感を伴わずに通り過ぎたりします。
これは、
世界が急に変わったというより、
関心領域の前提が、
現実の構造と噛み合わなくなってきている
状態とも見えます。
距離としての「関心」
関心領域は、
上下や善悪で分かれているわけではありません。
あるのは、距離だけ。
近すぎて見えなくなることもあれば、
遠すぎて存在を感じなくなることもあります。
問題が起きるのは、
その距離を
自分で選んでいるという感覚が
失われているときかもしれないです。
見ないことを選んでいるのか、
見えなくなっているのか。
関わらないのか、
最初から関心の外に置いているのか。
その境界が曖昧なままでも、
日常は成立してしまうんです。
一度、定点に戻って見ると
関心領域という概念を
少し引いた位置から見ると、
それは
「何に関心を持つか」ではなく、
「何を現実として採用しているか」
という話に近づいてくる。
世界は広がったわけでも、
狭くなったわけでもないです。
ただ、
どこまでを自分の世界として
引き受けているのかが、
人によって静かに分かれています。
その違いが、
いま、
いろいろな場面で
表に出てきているだけなのかもしれないですね。
この概念は、
理解するためのものというより、
”立ち位置を確認するための言葉”として置いておく方が、扱いやすい気もします。
どこまでを見て、
どこから先を見ていないのか。
その境界がどこにあるのかを、
一度、眺めてみる。
それ以上のことは、
ここでは書かなくてもいい気がしています。

