映画『教皇選挙』について②
こんにちはジャリです。
選挙の進行中、ある人物が常に場の中央に立っている。
発言を促し、順序を整え、沈黙の時間を管理している。
その人物は決定を下していない。
投票の結果を選ぶことも、方向性を示すことも行っていない。
ただ、進行を止めずに維持している。
判断が必要な場面では、視線が集まる。
しかし、その視線は「決めてほしい」という期待ではなく、
「責任を引き受けてほしい」という形で向けられている。
決定権は制度の中に分散している。
個人に集中することは避けられている。
それでも、結果が出なかった場合の負荷は、一点に集まっていく。
その人物は進行役として振る舞い続ける。
異論が出ても介入せず、沈黙が続いても遮らない。
時間の経過だけが管理されている。
外部で状況が変化しても、内部の役割配置は変わらない。
緊急性が増しても、決定の所在は移動しない。
進行と責任だけが切り離されたまま維持されている。
多くの場面で、責任と権限は同時に語られない。
決定できない状態が続いても、進行を止める理由にはならない。
その人物が行っているのは、選択ではなく保持である。
制度が崩れない状態を保つことだけが継続されている。
結果が出るまでのあいだ、
決定権を持たない人物の周囲に、
説明されない重さが集まり続けている。
