日本には四季折々の花が見られる。それをわざわざ季節の行事のひとつとして楽しむ人も多い。
こんにちは、ジャリです。
人が花に足を止める場面は、日常の中で繰り返し観測されています。
公園や道端、庭先や店先など、
特別な用事がなくても、
人は花の前で動きを止めることがあります。
写真を撮る人もいれば、
ただ見ているだけの人もいる。
花は生活必需品ではない。
食料でもなく、
直接的に役に立つものでもない。
それでも、
花は一定の頻度で生活空間に置かれ続けています。
一方で、
「花はなくても生きていける」
「実用性がない」
といった言葉も、繰り返し語られています。
生活に直結しないものは、
価値が低いものとして扱われやすいです。
効率や機能を基準にした場合、
花は説明しづらい位置に置かれます。
それでも、
花を完全に排除した環境は、
あまり一般的ではないです。
ここで見えてくるのは、
花が「役に立つもの」として
配置されていないという点です。
花は、
何かを達成するための道具として
置かれているわけではないです。
成果や効率とは、
別の軸で存在しています。
そのため、
花を見る行為は、
目的を伴わないまま発生します。
多くの場合、
人は花に対して
理由を言語化しません。
「きれいだから」
「なんとなく」
といった言葉で済まされます。
しかし、
その言語化されなさ自体が、
ひとつの状態として繰り返されています。
花は、
意味づけを要求しない。
役割を果たすことも、
期待に応えることも、
前提にされていない。
それでも、
人の視線や足取りを
自然に引き寄せています。
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この現象の中では、
花が必要か不要かという判断は
中心に置かれていないです。
生活に関係があるかどうかではなく、
生活の流れの中に
自然に入り込んでいる状態が残っています。
人が花に魅了される場面では、
「何のためか」を問わない関係性が
成立しています。
それが、
現在も繰り返し観測されている状態です。

