最近、判断を他者や仕組みに委ねる場面が増えている、という発言をよく見かける。
何かを決める前に検索する。
選択肢を並べて意見を集める。
最終的な決断を、データや反応に預ける。
そうした行動自体は、特別なものではなくなっている。
判断を外に出すことは、効率的な振る舞いとして受け取られやすい。
迷いを減らす方法としても扱われる。
責任を分散させる手段としても機能している。
その一方で、繰り返し観測される構造がある。
判断を外に置いたまま行動が続くと、
判断の基準が更新されなくなる。
自分の中に残るのは、選択ではなく反応になる。
何かがうまくいった理由も、
うまくいかなかった理由も、
外側の要因として整理されやすくなる。
結果として、
自分がどこに立って判断していたのかが、見えにくくなる。
多くの人が見落としやすいのは、
判断を外に預けること自体が、
一時的な代替であっても、
継続すると位置をずらすという点。
判断が外にある状態が続くと、
選ぶことよりも、合わせることが増える。
決めることよりも、従うことが増える。
その構造の中では、
迷いが減ったように見えて、
判断の感覚だけが薄れていく。
最終的に残るのは、
「何を選んだか」ではなく、
「何に合わせてきたか」という履歴。
それは失敗でも、間違いでもなく、
ただ起きている状態として、
静かに積み重なっていく。
